2010年

 

<風響社通信 No.23> 2010年1月1日


 通信23号をお届けします。



1,新刊のご案内


 ◎『中国食事文化の研究』(西澤治彦著、8000円)は12月末刊行しました。



2,近刊予定のご案内


 ◎『台湾原住民研究 13号』(日本順益台湾原住民研究会編)

 ◎『ベトナムの社会と文化 8号』(ベトナム社会文化研究会編)

 ◎『四川省羌(チャン)族』(松岡正子他編)

 ◎『宮座と当屋の環境人類学』(合田博子著)

 ◎『広東の水上居民』(長沼さやか著)

 ◎『韓国社会の歴史人類学』(嶋陸奥彦著)

 ◎『グローカリゼーションとオセアニアの人類学』(須藤健一編)


 その他、遅れ気味のものも鋭意準備中です。


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 いずれも、詳細は小社ホームページをご覧下さい。

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【後記】

 新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 21世紀もはや10年目、新世紀の看板も古びてきました。野球で言えば2回の表、箱根駅伝で言えば花の2区走者に襷が渡ったあたりでしょうか。通常なら予想とは異なる状況を踏まえて中盤・後半の作戦を微調整していく緊迫した場面ですが、凡な試合ですと、すでに勝敗が決してしまい、あとは個人記録に関心が向かうあたりとなります。


 後世の歴史家がどのように評価するかは知れませんが、時代を生きている者の一人としては、この世紀、今のところどうもあまり面白い展開にあるとは思えません。世の中を劇的に変えてくれるかとの期待を集めたオバマや日本の新政権が、なんら有効な得点をあげないまま凡打を繰り返すような光景だからです。


 斜陽産業の一員として、しかも老境が視野に入る年代にいる者としては、こんな元気のない時代に居合わせたことは不幸の二乗のようなものです。植木等のスーダラ社員が気楽に生きられたのも、全体が上り調子だったからでしょう。釣り馬鹿・浜ちゃんは、歳のせいというよりも、あまりに時代風景との乖離が広がったため終止符を打たざるを得なかったようにも思えます。


 さて、こんな暗い話をするのは自らが暗いことを世の中のせいにしたいがため、ともいえるかもしれません。ゴルフの遼くんを始め元気な若者はあちこちにいますし、世界のハルキのように活躍の場をますます広げる中高年もいるわけですから、自らの不平不満だけで世の中全てを否定するのはいただけませんね。


 おかげさまで小社もこの1月で創業19年を迎え、出版点数や売上げから言えば、この数年中国やインドなみの成長を見せて、ごく一部ですが業界関係者を驚かせています。昨年刊行した点数はなんと26点にものぼり、もはや一人出版社の限界をとうに超えたところにいると言っても大げさではありません。


 今年も予定している原稿だけでも昨年の水準を行っており、このままでは過労でダウンあるいは資金繰りの行き詰まりなど、思わぬ事態も予想されるほど。多くの疲弊する零細企業からは、なんと贅沢なことを、と叱られそうな暗・明るい話題となってしまいます。


 社主の年齢と会社寿命30年説を踏まえ、来たる創業20周年以降の最終ディケードをどのように生きるか、そろそろ考える時期かなと思っているところです。もはや成長を目指す時期ではなく、成熟期をどのように彩っていくか、という問題になるかと思われます。


 紙の本の最終ランナーであり、電子の本の最初のランナーとなる、かもしれない激動の時代に居合わせた者としては、この10年の過ごし方はきわめて重大でしょう。海賊的なやり方で日本の著作物をネット市場に投げ込もうとしたグーグルの暴挙はかろうじてストップしましたが、アングロサクソン的企業はその他にも数多あります。


 著作権を盾に闘おうにも、出版社にあるのは紙の本を刊行する出版権しか留保されていませんから、勝敗の帰趨は明らかです。そもそも多くの著作がパソコンで、すなわち電子媒体として執筆され、既存の書籍も急速に電子化されている現在、もはや「活字」によって大量複製をする、という業態が優位な形で成立し得ないことも明らかなのです。


 おそらく私たちに残されたものといえば、編集というスキルのみでしょう。著者の書き下ろした原稿はどんな完成度の高いものでも原稿であって、直ちに読者に渡すべきものではありません。


 私たち編集者は、第一読者として原稿をさまざまに読み込み、ケアレスミスのチェック、内容が他者の権利や人格を傷つけていないか、著者の言いたいことがこの表現でうまく伝わるのか、など検討を加えます。そして、たとえ電子媒体であっても、その内容と想定読者に相応しい組み方・レイアウト・デザインという意匠に工夫を凝らし、商品として市場に送り出すのですが、こうした専門職としての編集者の業務はおそらくなくならないであろうと思います。


 出版社として残りうる道があるとすれば、その版元が積み上げてきた目録、すなわち既刊本たちの指し示すイメージが基になるでしょう。小社で言えば、たとえば東アジアを中心に積み上げてきた民族誌のささやかなラインアップがあるのですが、それら全体が醸し出す存在感が、あらたな民族誌の著者をして、この中に自らの著作を入れたいと思わせる、かもしれないのです。


 そうした一種の「ブランド」力が少しでもあれば、編集者だけでなく、出版者としての生き残りも可能であろう、と考えています。要するに、きちんとした本を作ってきたなら、なんとかなるという楽観論にすぎないのですが……。


 いずれにせよ、電子本の時代とは、グーテンベルクの時代以前に戻ることを意味します。つまり、電子本は製品としては「1冊」だけ作ればいいわけです。物理的に複製するわけではありませんから、ハードディスクの中に仮想的な本を1冊作ったら作業は終わり、あとはグーグルやアマゾンに委ねるということになります。省資源かつ環境にやさしい業態への麗しい移動と評価されていいですね。


 問題があるとすれば、むしろ著作者側の方かもしれません。捏造ならぬ学生たちの「ネット造」レポートが教員を悩ませているのは知られていますが、今後あらゆる著作(会社の文書やブログなどすべての書き物)がネットに浮遊する文字列群からの寄せ集めになっていくことが予想されるからです。


 資料を捜して、整理しながら考えをまとめ執筆する、という従来の煩雑な知的労働とは異なり、ネットをググルと水道のように情報が出てくる時代、何かを書くこと自体が安易な組み立て複製作業となり果ててしまうことは、もはや避けられないことと思われます。


 パクリが横行するようになると斜陽になるのは、映画やテレビだけの話ではありません。大げさに言えば、いまや人類の文明そのものがパクリ構造となる時代の始まりにいるのかもしれません。魅力あるコンテンツを失った果てのメディアの衰退は大衆紙的なセンセーショナリズムの跋扈となり、個人・国家・民族などの感情が煽動されるにまかされ、リアリティを求める先はスポーツや芸能のみ、やがて世を挙げて究極のリアリズム=戦争になど向かうとすれば、電子化文明の(堕落の)罪は深いものとなるでしょう。


 そんなことを考えながら、はて、こんな話もどこかで読んだかもしれない、と気づきました。もはや、社主にも盗作探知ソフトの導入が必要なのでしょうか。思えば高校時代から友人のノートを借りてその場しのぎをしていたのですから、このスキルは40年モノなんですけど……。


 新年早々、イエローカードものの話題でお目汚し恐縮です。また一年、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。



追伸:老妻が腰椎を痛め、老老介護では癒合までの安静を確保出来ないため入院してもらいました。お陰で年末年始は社員犬タローと「おひとりさま+ワン」生活。上野千鶴子大先生の3部作に叱咤されながらの実習生活という次第。仕事がはかどらないハズがないのですが……。皆さまのご健勝をお祈りいたします。


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