2016年
2016年
<風響社通信 No.31> 2016年1月1日
よき新年をお迎えのことと存じます。半年ぶりの通信31号をお届けします。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
1,新刊のご案内
2015年:
◎『越境する身体の社会史』(帆刈浩之著)
◎『四川チベットの宗教と地域社会』(小西賢吾著)
◎『軍隊の文化人類学』(田中雅一編)
◎『薬剤と健康保険の人類学』(浜田明範著)
◎『西川寛生「サイゴン日記」』(武内房司・宮沢千尋編)
◎『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料7』(楊海英編)
◎『森羅万象のささやき』(鈴木正崇編)
◎『東アジア海域文化の生成と展開』(野村伸一編著)
◎『中国社会における文化変容の諸相』(韓 敏編)
◎『台湾原住民研究 18号』(日本順益台湾原住民研究会編)
◎『神霊を生きること、その世界』(竹村嘉晃著)
◎『日本・モンゴル関係の近現代を探』(ボルジギン フスレ編)
◎『韓国朝鮮の文化と社会 14号』(韓国・朝鮮文化研究会編)
◎『バングラデシュのマイクロ医療保険』(石坂貴美著)
◎『前間恭作の学問と生涯』(白井 順著)
◎『国家建設と文字の選択』(淺村卓生著)
◎『亡命者の二〇世紀』(小野亮介著)
◎『チベットのロックスター』(渡邊温子著)
◎『アルゼンチンのユダヤ人』(宇田川彩著)
◎『ペルー山村のチーズ生産者』(古川勇気著)
◎『君主制と民主主義』(白谷 望著)
◎『台湾と伝統文化』(陳昭瑛著)
◎『台湾原住民研究 19号』(日本順益台湾原住民研究会編)
◎『「知識分子」の思想的転換』(聶莉莉著)
2,近刊予定のご案内
◎『儒学から見た風水』(水口拓寿著)
◎『宗族と中国社会の現在』(瀬川昌久編)
◎『ゲマインシャフト都市』(吉岡政徳著)
◎『人類学の行方』(吉岡政德先生退職記念論文集編集委員会編)
◎『現代中国の〈イスラーム運動〉』(奈良雅史著)
◎『バリ島仮面舞踊劇の人類学』(吉田ゆか子著)
◎『雲南ムスリム・ディアスポラの民族誌」』(木村自著)
◎『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料8』(楊海英編)
◎『「華人」という描線』(津田浩司・櫻田涼子・伏木香織編)
◎『ポスト社会主義以後のスラブ・ユーラシア世界』(佐々木史郎・渡邊日日編)
◎『近代日本の人類学史』(中生勝美著)
◎『民族文化資源とポリティクス』(塚田誠之編)
◎『戦後日本の中国研究と中国認識』(代田智明編)
◎『境域の人類学』(上水流久彦・村上和弘・西村一之編)
◎『台湾における日本認識』(三尾裕子編)
◎『ベトナムの文化と社会 8』(ベトナム文化研究会編)
◎『比較日本文化研究 18』(比較日本文化研究会編)
予定が多くて錯綜しておりますので、とりあえず、最終工程もしくは中盤に入ったもののみ記載します。その他、遅れ気味のものも鋭意準備中です。
3,新規ブックレットを構想
このたび小社では、新たに「風響社ブックレット」という枠組みを設けることといたしました。従来の「〈アジア〉を学ぼう」シリーズなどには執筆者の資格制限があったため、執筆希望や企画をお寄せいただいても対応できませんでしたが、このシリーズは、小社の著者・執筆者を中心に、幅広く原稿をお寄せいただけるよう考えております。
内容は、小社らしく、売れ筋狙いでも定本的な位置づけでもない、フィールドや研究の最前線から採れたてのホットなものが並んでいけばと思っています。一点一点積み上げていった先に「特色」のようなものが生まれてくる、そんな「いいかげんさ」も小社らしいということで、皆さまの参加をお待ちしております。
年間5点から10点程度の刊行をめざし、新年度から企画を募集したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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新刊の詳細は小社ホームページをご覧下さい。
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【後記】
個人的には二年続いて喪中の正月を過ごしております。この半年ほどは幸いにも新たな困難は生じておりませんが、暦のようには簡単に過去をめくり捨てられないのが人生のようです。
9月にようやく骨折が完治となったものの、長くギプスで膝・足首を固定していたために、関節の拘縮とやらが起こって、いまだに可動域が不十分というところです。見た目にはすっかり元通りなのですが、正座はおろか和式トイレにも行けませんし、まっすぐ歩くのも厳密にはあやしいプチ酔っ払い状況です。
現代医療というのは、そうしたものらしく、手術で患部を除こうとすれば皮膚や筋肉や臓器が損傷しがちですし、薬を飲めばなんらかの副作用と、治療行為に伴う影響がどうしても生じてしまいます。
身体がさまざまな部分の相互作用によって動いている複雑系だからなのでしょうが、このあたりは同様に複雑な社会とも通じるようで、フセインを荒っぽく打ち倒したことがイスラム・ステイト誕生の遠因となったことなどが想起されます。家族や会社などの人間関係も一筋縄ではいかないという意味では同じ範疇といえるのでしょう。
まあ、社主の後遺症など老化と変わらないぐらいなものですから、せっせと整体師のもとに通い、東洋医療の循環的思想を思い浮かべつつ、施術してもらっていますが、心の方はもうすこし複雑なものらしく、形として見えてこないこともあって、いったい悪いのか良いのかさえ判然としません。
そんなこともありましたので、年度末の繁忙期を前にギアチェンジをはかるべく、「巡礼」のまねごとでもと、昨年9月に一週間ほどミャンマーにいってきました。
東南アジア地域はこれが初訪問でしたが、素晴らしい仏教遺跡はもちろん、経済開発がまだそれほど進まないかの国のやわらかな自然や村落、おおらかな人々の生活ぶりに触れたり、軍政からの政権交代が期待される選挙のさなかでもありましたので、歴史の転換を目撃するかのような気分も味わい、なかなかよいリフレッシュの旅となりました。
異文化の旅らしく、お酒を置いていないレストランに遭遇しては仏教国を実感し、ネットにつながりにくい地域に行っては不便さを体験しましたが、びっくりポンだったのはミャンマーがそうした国であることよりも、自分がネットよりお酒のないことに不都合を感じる不都合な真実を知ったことでした。
でもそれは、よく考えると当たり前だったわけですね。学生時代からなれ親しんだアルコールとのつきあいに比べて、インターネットなどまだ20年ちょっと、日常化・身体化された年月はさらに短いわけです。これはおそらく、アルコールに淡泊な向きの多い若い世代にとっては、感じる不都合が逆になるのかもしれません。(まあこの際、嗜好性とかほかの要素はぬきにしておきましょう。)
思えば、社主の世代が育った時代はいわば内燃機関の全盛の時代、物事は目に見えるところでガタピシ音を立てるように動いていました。それが今や原子や素粒子の時代、物事は五感とは隔絶したレベル・速度で動いています。人類がこれまでに生み出してきた紙のコンテンツ全ての情報が、手のひらに乗るほどの小さなメディアに収まってしまう、そんな時代を違和感なく生きるには、もはや私たちはあまりに遅れた世代に属しているようです。
経済の動きも物から情報へ、すなわち金本位制とそれを取り仕切る銀行から巨大な信用創造の連鎖を操るコングロマリットな情報産業へとシフトし、戦争ですら生物的・物理的なレベルから社会や情報に損傷を与えあうサイバーな構図へと変わりつつあると言われます。ただ、グローバリズムの世界はそうであっても、ミクロの次元ではあいかわらず金品を奪い合い、血を流しあう現実が残り、多くの人々はマクロ・ミクロの両面から痛めつけられる構造の中で呻吟せざるをえません。
ある意味では、シリア難民もパリでのテロリストとその犠牲者も、そして日本のブラック企業で苦しむ若者たちも、同じ時代のくびきに繋がれているといえるのでしょう。
社主の世代は残された時間も少ないので、ある意味「勝ち逃げ」の形でこの世を去ることもできそうですが、若い世代にはお気の毒というしかありません。まあ、若い世代には当然ちがった時代風景が広がっているわけですから、所詮は老人の股覗きか繰り言のレベルなのですが。
今も、このごろの正月はハロウィンやクリスマスのようにイベント化されて、なんの祝祭性もなく、厳粛な気持ちもない、などと愚痴をこぼしつつ、アマゾンで購入したお酒と珍味で新年を祝っているのですから、いいとこどりを画に描いたようなものです。
さあ、酔いが覚めるとたまったゲラの山が──実際には電子の「山」なのですが──待ち構えています。まあ、電子であろうと紙であろうとやるべき作業と量になんら変わりはありません。例年以上に風邪などひかぬよう注意をして、ガタピシ音を立てて仕事に励むことにいたしましょう。
今年もなにかとご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
<風響社通信 No.32> 2016年4月24日
正月以来となりますが、新年度のご案内として通信32号をお届けします。
1,新刊のご案内
◎『「知識分子」の思想的転換』(聶莉莉著)
◎『儒学から見た風水』(水口拓寿著)
◎『現代中国の〈イスラーム運動〉』(奈良雅史著)
◎『雲南ムスリム・ディアスポラの民族誌」』(木村自著)
◎『バリ島仮面舞踊劇の人類学』(吉田ゆか子著)
◎『ゲマインシャフト都市』(吉岡政徳著)
◎『多配列思考の人類学』(白川千尋・石森大知・久保忠行編)
◎『「華人」という描線』(津田浩司・櫻田涼子・伏木香織編)
◎『ポスト社会主義以後のスラヴ・ユーラシア世界』(佐々木史郎・渡邊日日編)
◎『近代日本の人類学史』(中生勝美著)
◎『民族文化資源とポリティクス』(塚田誠之編)
◎『宗族と中国社会の現在』(瀬川昌久編)
◎『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料8』(楊海英編)
(本年1月から3月のものです。週に一冊のハイペースとなりました!)
2,近刊予定のご案内
お陰様で今年もすでに30点以上と、予定が多くて錯綜しております。
改めてご連絡いたしますが、新たな外部スタッフも加わりまして、いずれも鋭意作業中ということで、よろしくお願いいたします。
3,新規ブックレットの企画開始
前号でもお知らせいたしましたが、新たに「風響社ブックレット」という枠組みを設けることといたしました。従来の「〈アジア〉を学ぼう」シリーズなどは執筆者の資格制限があったため、執筆希望や企画をお寄せいただいても対応できませんでしたが、このシリーズは、小社の著者・執筆者を中心に、幅広く原稿をお寄せいただけるよう考えております。
内容は、小社らしく、売れ筋狙いでも定本的な位置づけでもない、フィールドや研究の最前線から採れたてのホットなものが並んでいけばと思っています。一点一点積み上げていった先に「特色」のようなものが生まれてくる、そんな「いいかげんさ」も小社らしいということで、皆さまの参加をお待ちしております。
年間5点から10点程度の刊行をめざし、新年度から企画を募集したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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新刊の詳細は小社ホームページをご覧下さい。
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【後記】
ヨーロッパはまだ今日かもしれませんが、昨日4月23日は『ドン・キホーテ』(安売り店ではありません)の作者ミゲル・セルバンテスの没後400年にあたるとのことで、スペインの関係機関を中心に世界各地でさまざまな行事が催されています。
そしてまた同日23日は、奇しくもシェイクスピアの生誕400周年でもあったとのことで、人類史に残る文学者と劇作家が入れ替わるように没し生まれた、400回目の記念すべき日だったということになります。同様に世界中で記念行事が行われていることでしょう。
シェイクスピアの戯曲もいまやさまざまに読まれる古典ではありますが、やはり、聖書につぐベストセラー、ロングセラーであり、史上最高の文学とも評される『ドン・キホーテ』は、世界中で最も知られた小説として、文学史に刻まれる古典中の古典といえます。ただ、読み通した人があまりいないのは『源氏物語』と同様、名高い長編の宿命といえるのかもしれません。
ベストセラーもロングセラーも縁のない小社ですが、読み通す人があまりいない本だけはたくさん作っています。まあ、小説と違って学術書はストーリーを追う必要性が乏しく(そもそもストーリーではなく、論理展開といった方がよいかもしれません)、決めごとの展開を知っていれば重要な部分だけを拾い読みしても構わないものだ、とでも言っておきましょう。
それでも、こうした著名な文学作品ともなると、重要な部分だけはやたら知られていて、風車に突進する場面などは何億もの人が共有する、人類共通の心象風景として幾世代も継承されていくのですから、セルバンテスも作家冥利につきるというべきでしょうか。はたまた、通読されない寂しさの方が強いのでしょうか。
ちょっとよれよれながらも通読歴なんと2回を誇る社主などは、その証拠に(?)キホーテ臨終の場面もちゃんと脳裏に浮かぶのですが、最近はこの心象イメージが病床にあるフィデル・カストロとオーバーラップしてくる、というと、うんうんうなずいてくれる方が読者にも数人ぐらいはいらっしゃるかもしれません。
松本幸四郎の当たり役でも知られる「ラ・マンチャの男」とは違い、実作のキホーテは臨終にのぞみ、正気に戻って騎士道を否定してしまうのですが、そのちょっと前、病床に伏している場面がと言わないと、フィデルに激怒されそうですね。彼こそは「見果てぬ夢」を追い続ける(一般の脳裏にある)ほんとのドン・キホーテなわけですから。
さて、スタンダールの『恋愛論』で著名な、イメージの「結晶作用」は恋する男女だけの専売特許ではなく、どうやら人間の認知(特に好悪に関する認識の仕方)にはかならずつきまとう現象のようです。風車に突進した騎士を気取る滑稽な老人が、実は見果てぬ夢を追い続ける一種気高い人間性の持ち主である、ようなイメージは、全編通読した人々にはちょっと疑問でありながら、通読しない大方の人々にとっては、なんの根拠もないまま共有されていて、無謀な夢にむかって頑張る人はドン・キホーテのようだと「持ち上げられる」ようになります。
別の角度でいうと、たとえばキューバについてアンケートをとると、日本でならかなり好意的な評価が多いと予想されます。ところが、人々がキューバのことを実際にどれくらい知っているかというと、おそらく国別ランキングでもそれほど高くはないはずです。
ではその好意的なイメージを作っているものはといえば、カストロやゲバラによる絵に描いたような革命劇(のかつて聞いた印象)、ブエナビスタソシアルクラブに代表されるようなラテン音楽の響き(のどこかで聞いた印象)、サトウキビ、ラム酒、へミグウェイ、葉巻、トロピカルな風景などなど(へのなんとなくな好印象)が、どれも詳しく知ってはいないにもかかわらず、積み重なって結晶作用をなしたから、といっても間違いではないと思います。
もちろん、そうした情報の裏には独裁国家、亡命、収容所、貧困、といったマイナスイメージとなる内容も十分にあったはずですが、いちど結晶作用が始まると、まさに恋する男女のように、一方向にのみ突っ走っていくわけです。これはもう人間の認知の仕方の一種の「癖」であり、心地よいところに安住してしまいたい人間の「さが」といってもよいものではないでしょうか。
それが高ずると、日本は(自分は)素晴らしいという情報のみを集めて悦に入り、反省すべき点などはなかったものとして無視してしまう、困った国民性を発揮してしまいます。それは、家庭でも学校でも職場でもひょっとすると顔を出す「結晶作用」促進剤的な集合的心理なのかもしれません。
一方で、夢から覚めるように、そんな結晶が一瞬にして壊れてしまう仕掛けが人間の心には仕組まれていることも、多くの読者はすでによくご存じかと思いますが、それはまた号を改めてよく考えてみたいと思います。
さてさて、そんな「夢の国」キューバにこの連休ちょっと行ってきます。昨年のミャンマー旅行に味をしめたわけではありませんが、やはり現地を見ておかないと編集する際に土地勘が働きませんし(と言っておきましょう)、まあ好きなラテン音楽の本場を訪れたいという気持ちもあって、遍路第二弾となった次第です。
生きながらえてしまったカストロに比べ、全盛期に死んでしまったチェ・ゲバラはいまだに偶像として光彩を放っています。ヘミングウェイも人生を自ら断ち切ったことによって余香を漂わせていますから、個人的な人生では非業の死であっても、歴史の文脈では名を残していくことになる、まことに人間の評価は難しいといえます。
臆病者の社主などはとても「非業の死」など遂げたくもなし、と言って「非業の死」でない「普通の死」ってどんなの、という疑問も湧いてきます。チューブまみれで医師のさじ加減によって臨終が決まるのも「非業」と言えなくもなく、かといって、死の床に伏してまですべてコントロールできる人間もいないわけですから、ドン・キホーテがどう改心しようとも責めることはできない気がします。
オバマ大統領のアプローチから大きな節目を迎えたキューバですが、改心などしないだろうフィデルの生きている間はあのキューバのままなのかもしれません。あるいはすでに別のキューバとなっているのか。そんな愚問を抱きつつ、たぶん、ラム酒とサルサに酔いしれて南国ボケで帰ってくるのが関の山とは、まちがいなく自他ともの総合評価でしょう。
ということで、社主への結晶作用はほぼ固まったままですが、まあどうぞお気に召すままに。
では、また学会などでお目にかかりましょう。今度は骨折だけはしないよう、注意いたしますので。